名古屋あつたカルタ
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古代
熱田台地
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熱田台地
古代
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熱田は台地の上に乗っており、古代から陸地として存在していました。そして、その周囲は江戸時代頃まで海でした。海岸線をなぞると、ゾウの鼻のような形をしていたことがわかります。熱田台地の岬の先端には熱田神宮が鎮座。これはかつて、人々は物事の先端や末端、或いは頂に神様が宿ると信じていたためと考えられています。江戸時代にはゾウの頭の天辺に相当する位置に名古屋城が造られ、古代の海岸線を沿うように堀川が造られました。
古代
蓬莱島
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蓬莱島
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熱田は古来より、不老不死の仙薬があると伝わる「蓬莱」の地であると、鎌倉時代の『渓嵐拾葉集』に記されています。かつては伊勢湾から見た熱田の地が海に突き出る岬であったことから、中国の伝説にもある「蓬莱島」と称されました。亀井山円福寺(熱田区神戸町)には広大な亀の甲が井戸の底にあったという言い伝えがあり、まさに熱田は蓬莱の仙境でしょう。また、「あつた蓬莱軒」や「亀屋芳広」など熱田の老舗の屋号にも使われています。
古墳
ヤマトタケルノミコト
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ヤマトタケルノミコト
古墳
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第十二代景行天皇の皇子。父の勅命により全国各地の賊を平定されました。東征の道中、尾張国火上の里(名古屋市緑区大高)に立ち寄られた際、ミヤスヒメと出会い、妃として迎え入れました。その後、クサナギノミツルギをヒメに託し、賊の平定の為に伊吹山へ向かうも、山中で病に倒れ、都へ帰る途中に伊勢国能褒野(三重県亀山市)で亡くなられました。白鳥御陵(熱田区白鳥)は白鳥と化したヤマトタケルが能褒野より飛び来り、降り立たれた地と伝わっています。
古墳
ミヤスヒメノミコト
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ミヤスヒメノミコト
古墳
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尾張氏の乎止與命の娘。ヤマトタケルノミコトが尾張の地に訪れた際に親しくなられ、その後ヤマトタケルのお妃となられました。ヤマトタケルは伊吹山の賊の平定に向かう直前、草薙神剣をミヤスヒメに預けられました。ヤマトタケルの亡き後、ミヤスヒメは託された神剣が大神よりの尊いおしるしであったことを畏まれ、かねてから一族の祭場であった熱田に卜い定めて、奉安されました。
古墳
断夫山古墳
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断夫山古墳
古墳
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熱田台地南西端に立地する東海地方最大の前方後円墳です。尾張氏のミヤスヒメノミコトの陵墓とされ、古くは熱田神宮の神域として保護されていました。ミヤスヒメは夫のヤマトタケルノミコトの亡き後、夫への愛の誓いとして「夫を断つ山」として断夫山と名付けられたとされています。尾張名所図会によると、三月三日の桃の節句の一日のみ、山に登ることが許され人々が弁当持参で楽しんだといわれています。
古墳
草薙神剣
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草薙神剣
古墳
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皇位継承のみしるしである三種の神器の一つ。神剣はもと天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)といいスサノオノミコトが出雲国簸の川上においてヤマタノオロチを退治し、その尾より出現したと伝わります。第十二代景行天皇の皇子、ヤマトタケルはこの神剣を携え国土の安定に努めました。熱田から焼津地方に遠征した際、敵の放った野火に囲まれますが、草を薙ぎ払ってその窮地を脱したことから神剣の名を「草薙神剣」と称するようになりました。
古墳
熱田神宮
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熱田神宮
古墳
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1900年以上の歴史を誇り、古来より伊勢の神宮に次ぐ格別に尊いお宮として崇敬をあつめています。景行天皇四十三年(113年)、ヤマトタケルノミコトが遺したクサナギノミツルギを熱田の地にお祀りしたことが始まりです。神剣は今も御神体として本宮にお祀りされています。現在でも国家鎮護の神宮として特別のお取り扱いを受ける一方、地元の人々からは「熱田さま」「宮」と呼ばれ親しまれています。
古墳
圓通寺
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圓通寺
古墳
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始まりは尾張氏が熱田社の神宮寺として建立したものとされています。この地に集まった修行僧の中に秋葉三尺坊が居り、修行の末に鎮防火燭の秘法を習得しました。これに由来して秋葉山などの俗称で呼ばれています。毎年12月16日に行われる「火渡り神事」は、境内に約7メートル四方の大護摩を焚き、火防守護などを祈願してその上を修験者や信者が裸足で渡ります。毎年多くの人々が訪れます。
古墳
尾張氏
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尾張氏
古墳
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古来より熱田の地に根付き、支配してきた豪族。二世紀頃、尾張氏の乎止與命の娘であるミヤスヒメノミコトが、景行天皇の皇子の日本武尊より草薙神剣を授かり、景行天皇四十三年(113年)熱田の地に奉安されたのが熱田神宮の始まりです。十二世紀初頭、藤原氏に大宮司の職を譲るまで、創建から護持へ、熱田神宮と深く関わった氏族です。
飛鳥
社家
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社家
飛鳥
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七世紀に熱田神宮から故あって神剣が離れた後、神剣は宮中でお祀りされていましたが、天武天皇の朱鳥元年に熱田へ戻され、その際に初めて社守7人が置かれました。彼らは尾張氏の中から選ばれ、この子孫が社家を形成しました。歴代の社家は熱田神宮をお護りする祭祀の家柄として固く結束し、お祭りや儀式を1000年以上受け継いできました。
飛鳥
酔笑人神事
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酔笑人神事
飛鳥
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「会影堂神事」とも書き、俗に「オホホ祭」とも呼ばれています。朱鳥元年(686年)に天武天皇の勅命で神剣が還座されたとき、社中こぞって歓喜笑楽した様を今に伝える神事。影向間社、神楽殿前、別宮八剣宮、清雪門の四箇所で執り行われ、神職が半円を組む中、円の中心で蹲踞した二名の神職が装束の袖に隠し持った神面を中啓で軽くたたき、「オホ」と微声で唱える合図により、全祭員が大声をあげて笑う一風変わった神事です。
平安
空海
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空海
平安
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空海(774年~835年)は唐で密教を学んだ後に、典籍、法典、曼荼羅などを日本に持ち帰り、真言宗の開祖となりました。高野山奥の院の霊廟では、現在も空海が禅定を続けているとされており、今なお多くの人々の信仰を集めています。また、空海は全国を行脚し教えを広めたため、各地で空海にまつわる伝説が残っています。熱田神宮内にある大楠は、空海のお手植えとも言われており、樹齢は千年以上と伝えられています。
平安
法持寺
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法持寺
平安
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空海が天長年間にヤマトタケルを敬い御堂を建立し延命地蔵を本尊としたのが始まりとされています。文明年中に熱田大宮司の千秋氏が円通寺の和尚を迎え、曹洞宗として開山、再興しました。織田信長が桶狭間の合戦に向かう途中、熱田神宮とともに法持寺(白鳥御陵)にも立ち寄り、戦勝祈願をしました。昔は宝持寺とされ、白鳥御陵を護持する寺とされていましたが、現在の法持寺と改称。松尾芭蕉などの歌人も多く足をとめています。
平安
金山
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金山
平安
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熱田区金山は金山社が由来。 昔はこの一帯に鍛冶師:金属製品を製造する者で、祭具・刀や鉄砲・農具を造っていました。この金物を作っていた地帯であることが金山の由来となってます。戦国期には高品質な戦の道具を生産できるよう便宜を図っていただいていたとされています。領土を強固なものにするには鍛冶師の存在は必要不可欠でした。この地域で作られた金山鍔は武骨で荒っぽく、野性味あふれる作柄で人気です。
平安
由良御前
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由良御前
平安
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熱田大宮司・藤原季範の娘として尾張国に生まれ、藤原家との懇親が深かった源氏の義朝の妻となりました。1147年、藤原季範の別邸にて源頼朝を産みます。現在この別邸は熱田の誓願寺となっています。由良御前は頼朝に人道的思想を与え、後に頼朝が各地に社を作るための思想の原点となりました。そして、死後は亡母の追善のために、頼朝は鎌倉で鶴岡八幡宮を建立し、都から僧を呼んで盛大に供養しました。
鎌倉
源頼朝
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源頼朝
鎌倉
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熱田(現在の熱田区誓願寺があった場所)に源氏の父、義朝(よしとも)と熱田大宮司家の娘であった母、由良御前(ゆらごぜん)との間に生まれたと言われています。平治の乱(1159年)で頼朝は平清盛に殺されそうになりますが、清盛の継母の助命嘆願により命は助かり、伊豆へ流されました。後に平氏を滅ぼし鎌倉幕府を開き、武家政治の創始者となりました。
鎌倉
織田信長
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織田信長
鎌倉
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信長と熱田神宮は強い繋がりがありました。永禄三年(1560年)5月19日、信長は熱田神宮で戦勝を祈願しました。大宮司である千秋季忠は、信長の桶狭間の戦いに参戦。先陣を切って今川義元の軍勢に攻撃を仕掛け、討ち死にを遂げました。その後、視界を遮るほどの豪雨に乗じて信長軍は奇襲をかけ、義元を討ち取りました。戦勝の御礼として信長は神宮に築地塀を寄進。これが現在、信長塀と呼ばれています。
鎌倉
千秋家
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千秋家
鎌倉
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千秋家は、藤原南家・季範の子孫で、代々熱田大宮司職を務めていました。大宮司藤原季範の娘(由良御前)は源義朝に嫁ぎ、頼朝を生んでいます。頼朝は鎌倉の地に武家政権の幕府を開いた後も熱田大神を篤く崇敬し、鎌倉の鶴岡八幡宮に「熱田社」を勧請しました。千秋家は戦国時代には、織田家と繋がりを持ち、武士としても活躍。千秋季忠は桶狭間の戦いに従軍しました。
鎌倉
岡部又右エ門
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岡部又右エ門
鎌倉
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熱田神宮の宮大工、岡部又右衛門以言は1560年桶狭間の戦いの頃に織田信長に召抱えられました。1573年に近江佐和山の山麓で、琵琶湖を渡る為の大型軍船を建造しました。1575年の長篠の戦いでは、鉄砲隊の後詰めも勤めています。その後、安土城築城では大工棟梁として、地上6階地下1階の天主造営を指揮し、「日本総天主棟梁」の称号を与えられました。世界で初めての木造高層建築と言われる安土城を築城しました。
安土桃山
豊臣秀吉
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豊臣秀吉
安土桃山
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秀吉は天正十八年(1590年)に熱田門前町での押買狼藉・喧嘩口論の禁止、伝馬役の停止、売買物の諸役免除などを定めた「豊臣秀吉禁制」を下しました。同十九年(1591年)秀吉の母大政所が参拝し、社殿の造営を命じ、大宮司家へも領地を与えました。慶長三年(1598年)秀吉が病気になったときには平癒祈願に熱田神宮の神職が京都の伏見城まで出向いています。
安土桃山
徳川家康
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徳川家康
安土桃山
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1547年、徳川家康(竹千代)は6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなりました。しかし、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父の裏切りに合い、尾張国の織田信秀へ送られました。家康は人質として、2年間熱田の加藤順盛の屋敷に幽閉されました。しかし、その後に戻った今川家での寺暮らしの8年間よりも寧ろ丁重にもてなされており、この地で織田と徳川との同盟の礎を築いたとも言われております。
安土桃山
熱田湊
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熱田湊
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熱田湊は、信長の天下統一にも大きく貢献した重要な軍事拠点でした。織田信長の父、信秀の代には、清州城及び那古野城を拠点とし熱田と津島の湊の支配権を握っておりました。熱田や津島の西に、長島があり、一向宗と結びついた服部友貞がいました。友貞は長島一向宗殲滅の時まで信長と戦い続けました。桶狭間の戦いの際も隙を狙い、熱田湊を友貞が攻めてきましたが、熱田湊の豪商・加藤家による町衆によって撃退しました。
室町
東海道
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東海道
室町
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1601年、徳川家康は「五街道整備」により、5つの街道と「宿(しゅく)」を制定し、道としての「東海道」が誕生しました。日本橋(東京)から三条大橋(京都)に至る宿駅は、53箇所にて東海道五十三次と呼ばれております。尾張の宮宿(熱田)からは七里の渡しで伊勢湾を渡り、桑名宿に結ばれておりました。41番目の宿である宮宿は、脇街道である佐屋路や美濃路とも接続しており、往来も多く、東海道最大規模の宿場でした。
室町
魚市場
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魚市場
室町
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江戸時代以前には、海辺に小屋かけをして魚類の商いをしていた形跡があり「熱田魚市場」のはじまりと言われています。江戸時代には毎日「市」が開かれました。1633年に尾張藩は木之免、大瀬子町を中心に魚市場をつくり、8軒の問屋が尾張藩の特権を得てほぼ独占状態となり商いを行っていました。その代わりに、問屋は藩に毎年運上金を上納していました。この魚市場の熱田湊が、現在の取扱量日本一を誇る名古屋港の前身とされています。
鎌倉
熱田まつり
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熱田まつり
鎌倉
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毎年6月5日に執り行われる熱田神宮の例祭。尚武祭とも呼ばれています。勅使(天皇陛下のお使い)参向のもと厳粛に祭儀が執り行われ、祭典後には花火、献灯巻わら、武道、演芸、文芸等、数々の奉祝行事が奉納されます。古くから名古屋市民には、挙ってこのお祭りから浴衣に袖を通して神宮を参拝し、奉祝行事を楽しむ習わしがあります。熱田まつりは、名古屋の初夏を彩る風物詩として人々から親しまれています。
室町
浜御殿
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浜御殿
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1634年、尾張藩は街道を往来する将軍や大名らを招待するために、七里の渡しの東側の海を埋め立てて東浜御殿を、1654年に七里の渡しの北西に西浜御殿を築きました。東浜御殿は桑名楼と寝覚楼を持ち城郭のような構え、西浜御殿は平坦な邸でありながら内部の調度が豪華を極めていたと言われています。現在、残念ながらその跡を見ることはできませんが、西浜御殿が在った白鳥コミュニティセンターの北側には標識が立っています。
室町
御船行列
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御船行列
室町
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江戸時代、将軍や大名が乗船する「御座の間」を設けた豪華客船「御座船」と呼ばれる船が各地に在りました。尾張藩の御座船は堀川西岸から水路で結ばれた御船蔵(現在の白鳥庭園)に置かれていました。しばしば藩主や姫君が御座船に乗り、先舟では采を振り、ほら貝、太鼓を打ち鳴らす御船行列を成していました。沿岸には多くの見物人が繰り出すなど賑やかだったと言われています。御船行列は堀川を南下して伊勢・津島・桑名辺りまで出向いていました。
室町
遊郭
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遊郭
室町
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1806年、遊廓として公許された神戸町、築出町、そして伝馬町の花街がありました。徳川吉宗に逆らった尾張藩主・徳川宗春が蟄居させられて以降、名古屋城下には公認された遊郭が無かったため、名古屋城下からわざわざ熱田まで遊びに出掛けたと言われています。伝馬町は、明治中頃まで「宮の宿」として賑わい、200軒以上の旅籠、料亭、遊廓がありました。1889年の記録で遊女98名、芸妓13名がいたと言われています。
室町
名古屋コーチン
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名古屋コーチン
室町
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古来より、熱田の港は中国や東南アジア諸国との交易がさかんでした。江戸後期には多くの食用の鶏が輸入されました。明治四年に元尾張藩主・海部壮平(かいふそうへい)とその弟正秀(まさひで)は、品種改良のために中国産のバフコーチンと地元の在来種を掛け合わせました。その結果、大型で卵をよく産む、日本有数の旨味の強い美味しい鶏「名古屋コーチン」として認められるようになりました。明治三十八年には国産実用品種第1号となりました。
室町
宮宿
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宮宿
室町
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江戸時代の熱田は、東海道五十三次の41番目の宿場「宮宿」(熱田宿)でした。熱田には熱田神宮が在ったことから、宮宿と呼ばれていました。宮宿は中山道垂井宿にいたる脇街道美濃路や佐屋街道との分岐点でもあり、人々の往来が非常に盛んでした。東海道の中で1万人超えの宿は大津、府中、宮宿(熱田)の3宿のみ。旅籠屋の数では248軒と日本一の数であったことからも、宮宿がとても繁栄していたことがわかります。
江戸
都々逸
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都々逸
江戸
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七・七・七・五の音数律に従い、三味線にあわせて歌う出し物。江戸時代から昭和にかけて大衆娯楽として広まりました。寛政十二年(1800年)、宮宿(現在の伝馬町内)に開店した鶏飯屋という茶屋に勤めていたお亀という女中が、関東の潮来(いたこ)節を自己流で歌ったのが始まりと言われています。「ドドイツ・ドイドイ」という独特の節回しや、江戸や京都にもない独特なリズムが評判を呼び、都々逸という新たなジャンルを拓きました。
江戸
松尾芭蕉
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松尾芭蕉
江戸
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貞享元年(1684年)松尾芭蕉は熱田神宮に参拝しましたが、慶長五年(1600年)の造営以降、修復は行われず、社殿は荒れて草は伸び放題となっていました。貞享三年(1686年)、五代将軍徳川綱吉の命により、幕府直轄で大規模な修復造営が行われ、境内は一新しました。翌四年、再び社に詣でた芭蕉は雪降る中、立派に修復された神宮の神々しさを「磨ぎ直す鏡も清し雪の花」という句にして詠みました。
江戸
名古屋城
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名古屋城
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名古屋城は、徳川家康が慶長十四年(1609年)九男義直の居城として、また大坂方への備えとして築城を命じました。地理的には熱田台地の北端に位置するこの城は、「尾張名古屋は城でもつ」と言われるように、江戸時代を通じて繁栄しました。太平洋戦争での空襲により名古屋城は焼失しましたが、名古屋市制70周年記念事業として、昭和34年に再建されました。現在も、本丸御殿の再建工事と天守閣の木造復元が進められています。
江戸
松飾
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松飾
江戸
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江戸時代、熱田の門松は「熱田の町々に立る元三の門松は、他に異にして、松より竹の数多く、家毎に立つらねたるさま、あたかも竹林に入るがごとく」と呼ばれており、葉竹と若松で飾る熱田独特の正月飾りでした。家毎に山から切り出したままのような竹が飾られ、ずらりと並ぶ様は竹林を思わせます。正月の風景としては珍しく、壮観でもあります。現在、この独特の習慣は無くなってしましましたが、一部で保存の活動も行われています。
江戸
堀川
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堀川
江戸
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清須から名古屋への都市の移転に際し、木材や石材を運ぶための輸送路として開削された運河が堀川です。着工は名古屋城の築城と同じ1610年、翌年には完成しました。全長6km余りの壮大な工事となりましたが、この普請奉行として徳川家康が白羽の矢を立てたのが、福島正則左衛門大夫でした。「大夫堀」納谷橋の欄干に正則の紋所「中貫十文字」を見ることができます。現在はその役目を終えましたが、屋形船に乗って楽しむことができます。
江戸
白鳥貯木場
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白鳥貯木場
江戸
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1629年、堀川河口に「御材木場」(白鳥貯木場)が設置されたことが起源となります。木曽御領林の材木を川と海、そして知恵を駆使して、実に11カ月の年月をかけて木曽山中から熱田白鳥へ運ばれました。貯木場には木曽の良木が集約され、名古屋城をはじめとする全国の築城を支えた最重要交易拠点とされていました。木曽のヒノキは「蓬莱のかざり」「御国のたから」といわれ尾張藩の産として各地で珍重された。
昭和
熱田空襲
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熱田空襲
昭和
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昭和20年6月9日午前9時、愛知時計電機本社工場上空に米軍機「B29」42機が飛来。2トン爆弾等を投下しました。わずか10分間の爆撃の後、白鳥橋周辺は肉片と血に染まった衣類が散乱。頭部や下半身がない死体や手足が転がり、堀川には爆風で吹き飛ばされた遺体が浮くなど、地獄絵図と化しました。この空襲は死者2,068人、けが人1,944人という、第二次世界大戦における東海地区最大規模の悲劇に見舞われました。
昭和
政教分離
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政教分離
昭和
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熱田神宮はその長い歴史の中で、各時代の偉人が権力、武力を誇示、祈願する重要な政治拠点として発展してきました。また、民衆にとっても、文化を育む大切な心の拠り所でした。ところが、熱田空襲によって社殿が焼失。また、GHQによる戦後の政策によって国家と神宮の繋がりは解消しました。一説によると、日本人の信仰心を恐れた米国の戦略、とも言われています。一連の政策によって、日本古来の信仰の在り方は薄れていきました。
平成
世界デザイン博
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世界デザイン博
平成
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名古屋市市制100年を記念して、平成元年7月15日~11月26日、白鳥会場をはじめとする3会場で開催されました。「そんなのやってどうするの?」「名古屋がデザイン? 凄いギャグだね」といった戸惑いからのスタートでしたが、3会場方式やパークアンドライド、シャトルバス、そして市民参加型博覧会等の新たな挑戦により、入場者数は目標を上回る1,518万人に達しました。「もっとも成功した地方博」とされています。
平成
白鳥庭園
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白鳥庭園
平成
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白鳥庭園は白鳥貯木場跡地に、敷地面積3.7haと東海地方最大級の規模を誇る日本庭園として、平成3年4月14日に開園しました。名古屋を中心とした中部地方の地形をモチーフに、6,000トンの景石と毎分6,000リットルの水が流れる水系は、築山を「御嶽山」そこからの水の流れを「木曽川」その流れが注ぎ込む池を「伊勢湾」に見立て、源流から大海までのさまざまな水の姿を表現した池泉回遊式日本庭園です。
平成
あつた宮宿会
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あつた宮宿会
平成
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2013年10月に行われた「東海道シンポジウム宮宿大会」の実行委員会メンバーである、地元の食の老舗や企業、大学、地域NPOを中心に2014年4月に発足しました。戦争で多くの歴史的記録を失った「熱田」に江戸時代の賑わいを取り戻すべく、若手を中心に熱田の歴史を振り返り、次世代、そして世界へ繋ぐ活動を行っております。名古屋市、熱田区役所、そして熱田神宮とも連携し、産官学でのにぎわいまちづくりを推進しています。
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